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HAPPY GYEYANG 桂陽区, 仁川

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文化財及び歴史 桂陽の歴史

桂陽の歴史

仁川広域市桂陽区

仁川広域市

1994年12月20日、法律第4789号により改定された地方自治法の改定法律第2条1項及び2項により直轄市が広域市に昇格し、第3条2項の「郡は広域市又は道の管轄区域内に置く」との条項により、広域市内に郡が置かれることとなった。

1994年12月22日の法律第4802号における「ソウル特別市廣津区など9自治区の設置及び特別市・広域市・道間の管轄区域変更などに関する法律」は、当該地域において住民生活の便宜を増進し、地域の均衡発展を図ることを目的とするもので、地方自治体の行政区域を合理的に調整することが可能となった。本法律により、仁川広域市の管轄区域は既存区域に加え江華郡と華城郡に編入された大阜面を除く甕津郡の全域と金浦郡黔丹面全地域を編入した地域となり、339.1㎢から954.13㎢に拡大し、全国最大規模の面積を有する広域市となった。

桂陽区

부평부 지도 『여지도서(輿地圖書)』

1994年12月22日に制定された法律第4802号のソウル特別市廣津区など9自治区の設置及び特別市・広域市・道間の管轄区域変更などに関する法律第4条により北区を富平区とし、延寿区と桂陽区をそれぞれ設置することとなり、その規定は1995年3月1日に施行された。

高麗時代の高宗2年(1215)に安南都護府となって初めて桂陽という行政単位の名称が使用されるようになり、忠烈王34年(1308)に吉州牧となるまでの93年間使用された。

1914年4月1日に富平郡を廃止し、富川郡を新設する際の面の統合に合わせて東面、堂山面、黄魚面を統合し桂陽面とした。桂陽面は1973年に金浦郡に編入され、1989年に仁川直轄市に編入された際に北区桂陽洞となり、1995年3月1日に仁川広域市桂陽区となった。

1995年3月1日の桂陽区庁開庁に向け、1995年1月1日付けで仁川広域市桂陽区分区設置準備団の団長として白世烈(ペク・セヨル)が任命され、1月4日に設置準備団が発足し、臨時庁舎の新築や組織構築など、3月1日の開庁に向け急ピッチで準備が進められた。

3月1日の開庁までには、臨時庁舎の新築工事が冬期で遅れるなどの多くの困難があったものの、無事に開庁の日を迎え、白世烈団長が初代区長に任命された。祝日である3月1日11時に就任式が執り行われ、就任の辞において区長は、桂陽区の文化的・歴史的アイデンティティを開発し、オーナーマインドと誇りを持って世界へ進んでいこうとの言葉などで区政の目標を掲げた。

臨時庁舎として、桂山洞905番地の働福祉会館駐車場に敷地面積約2,890㎡(約890坪)、総工費約11億4千5百万ウォンを投じ、軽量鉄骨構造の延べ面積約5,110㎡(約1,545坪)の二階建て仮建物が建築された。臨時庁舎での業務は、桂山洞1079-1番地に敷地面積23,566.60㎡、延べ面積35,277.68㎡(地下1階、地上7階)の新庁舎が建設され、2001年12月1日に竣工するまでの約7年10カ月に及んだ。

古代

先史時代

青銅器時代のものと見られる石斧が桂山洞で発見されたこともあるが、文献上では高句麗時代に主部吐郡とされているのが富平地域の当初の名称である。新羅時代の景徳王が長堤と改名し、高麗時代初めには樹州となり、金正浩の大東地志富平条には、百済の時代に富平を「主夫吐」と称していたことが記されている。

三国時代の富平地域は、三国の建国が進められる中で、その盛衰に応じて帰属が異なった。韓半島の中心を流れる漢江に隣接している地理的条件の関係で、三国の漢江流域争奪戦の影響を大きく受け、百済が漢江流域を支配するに当たり(初期から近肖古王以降)百済に帰属することとなり、高句麗が漢江流域を占有した際(廣開土大王、長寿王以降)には高句麗に隷属し、新羅が漢江流域を支配した際(真興王代以降)には新羅の領土となった。

三韓時代

漢江以南において、記録上初めて登場する韓族の政治社会は辰国である(衛氏朝鮮、B.C2世紀)。辰国に関する後漢書の記録には、韓には馬韓、辰韓、弁韓の三つがあり、およそ78カ国の領土を合わせて四方が約4,000里で東西が海に接しており、その全てがかつての辰国であったとあり、三韓全体が辰国の領土であったことが記録されている。その他の国の記録からも、当時の富平は辰韓の領土に属していたと考えられている。

三国時代

桂陽地域は高句麗時代に主夫吐と呼ばれていたが、統一新羅時代には長堤郡となった。百済に復讐せよという先代王の廣開土王の命を受けた高句麗の長寿王は、先代王の領土拡大政策を継承し、広大な地域を開拓した。長寿王は96歳の長寿を誇った君主であったが、同王15年(427)に都を集安国内城から平壌城に移し、同王58年(470)には、かつての帯方郡の領域であった金浦半島に主夫吐郡を設置した。

中世

松岳(現在の開城)地方の豪族出身である王建は、818年に専制君主として横暴をはたらいていた弓裔を追放し、王位について高麗の太祖となり、935年に新羅を帰属させ、太祖19年(936)には後百済の降伏を受けて後三国の統一を果たした。この時から桂陽富平地域は高麗の領域に属することとなった。

樹州

高麗時代に主夫吐郡と呼ばれていた名称は、太祖23年(940)に多くの州、府、県の名称を改めた際に樹州と改名されたものと見られる。

安南都護府

樹州は高麗毅宗4年(1150)に安南都護府に改称され、それに伴い富平の邑土であった樹州は10年でその幕を下ろし、安南都護府の属県は衿川県(新興 )、童城県(金浦)、分津県(金浦、甕津)、孔巌県(金浦楊州)、守安県(金浦デゴッ)などの六県となった。

桂陽都護府

安南都護府は高宗2年(1215)、65年ぶりに桂陽都護府に改称された。この時から富平は桂陽とよばれるようになり、それに伴い安南山が桂陽山と呼ばれるようになったと考えられるが、桂陽山から桂陽という地名が使われるようになったという説もある。桂陽山は桂と柘植の木が多く自生していたことに由来するとされているものの、6.25事変以降、多くの盗掘被害に遭って現在ではその姿を見る事が出来ないが、近年では桂陽区庁が桂と柘植の木の植樹を進めている。

吉州

忠烈王34年(1308)に桂陽都護府が吉州牧に昇格した。桂陽都護府の歴史は93年に及び、鷹狩りを好んだ忠烈王は鷹場のあった桂陽を頻繁に訪れ、思い入れもあったようである。忠烈王は桂陽都護府の吉州牧への昇格から2年後にこの世を去ったが、その直後に富平府に再度降格されたことからもそのことがうかがわれる。

富平府

忠宣王2年(1310)、全国の牧使コウル(行政単位の総称)の廃止に際して昇格、降格が行われ、歴史的にも事実上も「富平」の地名が誕生することとなった。

黄魚県が富平府に吸収され、陽川県が富平府から離れ、仁州は再度慶源府として独立した。

近世

高麗から朝鮮への転換は、政治、経済、社会、思想などのあらゆる面で大きな変化をもたらし、中世から近世への転換としても捉えられている。朝鮮時代の地方制度では全国を八道に分け、その下に府、牧、郡、県を置いた。

富平府の変遷

해동지도의 부평부(18c) 이미지

富平府は高麗末以降、朝鮮建国の後も京畿右道に属していたが、太祖4年(1395)に一部の郡県を西海道として独立させ、残りの郡県を左・右道に改編して、楊州、鉄原、延安などの郡県とともに京畿右道となった。

富平府は太宗13年(1413)に都護府となり、翌1414年には金浦県が富平都護府に編入されたものの、1416年に再び分離された。世宗20年(1438)には富平の官・民が温泉について隠ぺいし、国家に報告しなかったことから一時的に県に降格され、8年後の世宗28年(1446)に再度都護府に昇格した。

この後も、燕山君11年(1505)に富平都護府の内侍である金舜孫が処刑されたことに伴い、富平都護府は廃止され、翌中宗元年(1506)に再度設置されたものの、光陵に放火した崔弼成の出身地であるという理由で粛宗24年(1698)に県に降格され、10年後の粛宗33年(1707)に再び元に戻るという、三度にも渡る降格を経験した。

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外敵の侵略

7年に及ぶ壬辰倭乱

「大東地志」によると、富平地方は高麗時代禑王4年(1378)に倭寇の侵入に直面した。宣祖25年(1592)には壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が起こり、富平地方でも大きな被害が生じたという。「瑣尾録」によると、義兵長であった金千鎰が義兵1,500名を率いて安山に駐屯し、兵士である崔遠が1,800名余りを統率していた。

しかし、不安に駆られた兵士らの多数が江華島に逃亡し、残った兵士も逃走の考えを持ち続けていた中、鷺梁津に駐屯していた倭軍は富平、桂陽を含む漢西地方が空白状態であることをつかみ、漢西への侵入を図った。

仁川を経て富平と金浦を占領した倭軍は通津を経て北上を続けたが、援軍の到着により形勢は逆転した。退却に入った倭軍は桂陽山古城を修繕して駐屯する中で近隣の集落で略奪を行っていたが、ソウルに駐屯していた倭軍の退却に合わせて撤収し、この際、富平府庁舎と富平郷校がともに兵火により焼失した。

朝鮮と清の戦い、丙子胡乱

朝鮮は壬辰倭乱からわずか40年で、再び10万もの大軍を擁する清の侵略を受けることとなった。これが仁祖14年(1636)の丙子胡乱である。王族と一部の官吏らは江華島に避難したが、仁祖は道をふさがれたため南漢山城へ入り抗戦を開始した。

江華が陥落し、王子や王妃が捕虜となったという知らせを受け、朝廷では主戦と主和の両論が激しく交わされたが、結局仁祖が三田渡(現在の松坡)に出向いて降伏の意を伝え、清からの求めに応じて清の太宗の頌徳碑を建てることとなったが、その碑文は仁祖6年(1628)に富平府使を務めた漢城判尹・吳竣の手によるもので、現在は桂山洞の富平初等学校内に位置している。

伝統秩序を再整備し、朝鮮王朝の集権体制を強化しようとする大院君の改革政治において、西洋勢力からの通商要求はひとまず阻止すべき対象であった。更に、大院君の集権以前からフランス人宣教師が国内で密かに活動を行っていたことから天主教(カトリック)の信者が日々増加していた。また、義州や東萊などでの国境貿易を通じて西洋の文物が入り、使用されていたことから、当時の朝鮮ではこれらの西洋勢力の侵入に対する危機意識が高まっていた。そこで、天主教を禁止、抑圧し、西洋文物の流入を厳禁すべきであるという世論が提起されるようになってきた。これらの世論に後押しされ、大院君は通商拒否の鎖国政策を固守し、西洋の通商要求に応えることなく洋貨禁断を命じ、天主教に対する弾圧を断行した。

帝国主義への対抗、丙寅洋擾

当時の朝鮮ではベルヌ―、リデルなど12名のフランス人宣教師が活動しており、信徒は2万人余りに達していた。当初、大院君は天主教について寛容的であり、1860年以降、豆満江を越えて脅威の対象となっていたロシアを牽制すべくフランスとの連携を企図する中で、フランス人宣教師を利用することを考えるようになった。

しかし、その交渉が暗礁に乗り上げると、儒生や両班らが強く主張し、結局天主教の弾圧が進められることとなった。大院君は高宗3年(1866)1月に天主教弾圧令を出し、わずか数カ月の間に9名のフランス人神父と南種三を始めとする8,000名以上の天主教信者を殺害した(丙寅邪獄)。同年の高宗3年(1866)にはフランス艦隊が仁川沖に攻め寄せる事件が発生し、これを丙寅洋擾と呼んでいる。

フランスの戦艦2隻は富平府領海である蘭芝島沖に、もう1隻は虎島に停泊した。この事実を知らされた当時の富平府使・趙秉老は直ちに朝廷に報告した。これに対して兵曹では富平府使・趙秉老と永宗僉使・沈永奎にフランス艦艇を厳重に問責、退去させるよう命じたが、フランス側は乗船を拒否し、目的を果たすことは出来なかった。朝廷の命を受けた趙秉老はその後、座首・李思格と中軍・洪胤錫を帯同して現場に到着し、山のように大きなフランス軍艦をみて驚愕した。彼らは船を探したが、船はあるものの船頭は逃げてしまっていた。近所の船頭を動員し、船で蘭芝島沖に停泊しているフランス軍艦に接近した趙秉老は、死を覚悟して大声で艦長との面会を求めた。すると朝鮮人通訳が現れ、司令官は虎島沖に停泊中の軍艦におり、そちらへ向かうように指示された。

フランス軍艦に乗り込んだ趙秉老は、ローズ提督に抗議の意を伝え、恐怖を押し殺して「命を受けやむを得ずやってきた。どうか、富平の領域からは出てほしい。」と哀願した。しかし、フランス艦隊司令官は、趙秉老の求めには一言も発せず、来訪に礼を述べ、通訳とともに船内を見学するよう言った。

趙秉老の一行は、通訳の案内で軍艦内部を隅々まで見学し、巨大な大砲、見たこともない兵器、物品、時計などを見て感嘆し、特に蓄音機の音を非常に不思議がった。軍艦見学を終えた趙秉老の一行はフランス側司令官に、富平区域からだけでも立ち去るよう重ねて求めた。これに対し、フランス側司令官は「我々は時が来れば去る。」と話し、「現在、軍艦には米、肉、野菜などが不足しており、これらを供給してもらえると非常にありがたい。」と求めた。しかし、趙秉老一行は「それは上からの命令がなければ難しい。」として拒絶し帰還した。その後、フランス艦隊は楊花津西江に至り、ソウルの都城は混乱に陥った。しかし、フランス艦隊は3隻の小艦隊では島しょの攻撃が困難であると把握し、付近の地形を偵察したのみで帰還した。ローズ提督は同年10月に7隻の軍艦を率いて再度仁川沖の勿淄島(現在の芍薬島)近くに現れ、14日には甲串に上陸、16日には江華府を占領し、食器 や食料、書籍などを略奪した。これに対して朝廷では李景夏、李基祖、李元熙などの勇将を選び出し、ソウルをはじめとする楊花津、通津、廣城鎮、富平などに配置した。また、ソウルに向かうフランスの一軍を韓聖根の部隊が文殊山城で打ち破り、梁憲洙の部隊は鼎足山城でフランス軍を撃退することに成功し、結局ローズ提督の艦隊は退却した。これが富平桂陽地域における1866年の丙寅洋擾の概要である。

近代

朝鮮後期になり政治、経済、社会、文化などのあらゆる分野における大きな変動から近代社会を目指す動きがみられるようになってきた。

経済的な面では、

農業生産力の急増による社会変動の土台整備

商工業は、

商業資本の成長が見られるようになり、

社会的な面では

富の蓄積に伴う身分の上昇が一般化し、両班社会の身分構造が崩壊する中、平民と奴婢の解放、儒教的な両班と官僚社会の矛盾を解決する新たな思想体系として実学が発生し、社会改革と近代化の方向を提示するに至った。また、新たに天主教が伝来して伝統社会の秩序や価値規範にも伝わり、民族宗教としての東学が発生し、農民層が中心となって現実改革の社会運動を展開した。北学論者たちの通商開化論を主張により、開港と開化の基盤が整備される中、開港以降の開化派による甲申政変、その後の甲午更張についても、たとえ外勢の介入があったとしても、内部基盤は実学以降の自主的な改革意識から整備されていたものである。

高宗が即位し、権力を掌握した大院君は多くの改革を断行し、国民の支持を受けていたが、鎖国政策が進められる中で密かに明聖王后(明妃)の勢力が力を伸ばして反大院君の勢力を糾合し、結局大院君は高宗10年(1873)に国王の親政を主張して下野した。大院君が下野すると、日本は朝鮮に対して開港を強要する政策を推進し始め、朝鮮侵略の礎とすべく、1875年に雲楊号事件を引き起こし、ここに日本による韓国侵略が始まった。

桂虞亭

高宗3年(1866)に丙寅洋擾が発生したことを受け、国家としての西海岸の防備のため、緊急に富平府毛月串面古棧里クヮギキルに桂虞亭を設置し、軍隊を駐屯させて富平沿海の守備に当たったが、高宗16年(1879)に連喜鎮が設置されると、13年余りの役目を終え廃止された。

連喜鎮の設置と衆心城の築造

朝廷では丙寅洋擾と辛未洋擾を経験し、また、雲楊号事件を契機に日本海軍が武力による威嚇を行う中で江華島条約が締結されて門戸を開くこととなり、国防の重要性を切実に感じることとなった。中でも、西海(黄海)の防備問題は深刻であった。即ち、富平と仁川両岸の防備問題が提起されたのは高宗14年(1877)10月の事である。当時の朝廷では富平と仁川を海門の要所として江華に劣らず安全保障の重要地としてみなしていたためである。富平と仁川は安全保障の重要地であるが、仁川路と富平路が江華を経由する入京路であり、険しい道が横切っている江華路ではなく、仁川富平に直行することは自明の理であった。

このため、その対策を論議する席で高宗は「日本の船舶が仁川に直行するのは江華路よりも仁川路が便利であるためだ。」と述べ、領議政である李最膺は「日本人が仁川・富平路をよく知っている以上、利便性の高い道を捨てて悪路を経由する理由は皆無であり、彼らの船舶が仁川・富平に直行することは些細な心配ではない。」と述べた。そこで高宗は対策として仁川・富平などの防備を整えなければならないと強調した。そして高宗15年(1878)8月27日に鎮を設置して砲台を築造することが具体化し、仁川富平沿岸の防備は鎮と多くの砲台により完成した。

武衛所の竣役が上啓されると、高宗は仁川に設置された鎮を花島鎮、富平に設置された鎮を連喜鎮と命名した。しかし、日本側の圧力に屈して高宗17年(1880)末に仁川を開港したことを契機に、これらの防備も無用の長物となってしまった。一方、高宗20年(1883)1月1日に仁川が開港されると、仁川港に対する防備策として、同年4月7日に永宗鎮を独鎮として再度設置し、10月には富平から西串に続く景明峴(ジンメイコゲ)に衆心城を築造し、高宗21年1月4日には富平管内に畿沿海防営を設置した。

衆心城事蹟碑によると、衆心城は富平府使・朴熙房が朝廷の命により住民を動員して築造し、城門は地名から景明門と名付けられた。門上の楼閣は控海楼と呼ばれ、城の名は「衆民の心を一つにして築造された城」の意味で衆心城となったという。このように西海岸の沿岸防備のために花島鎮、連喜鎮砲台、衆心城などを築造したものの、一度たりともその実効はないまま、国庫の損失と民衆の苦役を生じさせるだけの結果となった。

富平郡の設置

開化党は、高宗21年(1884)にその一員である洪英植が総監を務める郵征局の開局を祝う祝宴を利用し政変を計画した。彼らは宮中に入り、王と王妃を昌徳宮から景祐宮に移し、開化党に従う50名の士官生徒と200名の日本軍に護衛させた後、王命により宮中に入る閔氏一派の大臣や各軍営の朝使を殺害した。これを甲申政変という。政権を掌握した開化党は新政府を組織し、各国の外交官に通告する一方で、国王を昌徳宮に戻し、14点の革新政綱を作成して近代国家建設を目標としたが、清軍の出動により、政変は失敗に終わった。

このように、朝鮮では開化運動が展開され、壬午軍乱、甲申政変、東学農民運動などを経ながら近代国家を目指した。富平・桂陽地域は地方行政上、都護府がそのまま置かれていたが、高宗32年(1895)に富平郡に降格し、仁川管轄府に隷属することとなった。第一次甲午改革は特段の成果を上げられなかったが、第二次甲午改革では中央政府の機構改革と合わせ、地方制度についても大改革を断行し、1413年以降482年間も踏襲されてきた8道制を廃止し、全国を23府に分けて府、牧、県を統廃合し、その名称を府、郡としたが、郡の数は337にも上った。

この際、富平府は富平郡となり、仁川府に監理が置かれた。23府制は1896年8月4日の勅令第35「地方制度改定」により廃止され、13府制が施行された。この際、富平郡は仁川府に属し、1年後には京畿道の所属郡となった。1988年に発刊された「富川市史」によると、当時の富平郡は全15面に3,021戸で、人口は男性6,213人、女性4,981人の合計11,194人であったとされている。

日本による植民地支配時代

1910年に韓日併合に関する条約が締結されたことで日本帝国主義は韓国の侵略に乗り出し、日本の植民地となった国家の主権は強奪された。1910年9月30日には朝鮮総督府機関と地方機関が共存することとなり、道観察使は道長官と改称され、道の下部行政組織として府・郡・面が置かれることとなり、13道12府317郡4322面が確定された。従来、直轄下にあった漢城府は京城府に改称され、富平府は京畿道の直轄下に入ることとなった。

富平郡の廃止と富川郡の新設

朝鮮総督府が地方制度を改革する際、西海岸の関門である仁川に開港場を設置する必要性が生じ、仁川が府に昇格するのと合わせ、この一帯に地域的な変化をもたらした。即ち、1913年12月29日に制定、公布された府令第111号(1914年10月1日施行)にて仁川府の管轄区域を開港場に縮小し、他の地域は全て富平郡に統合したのである。この際、富平郡の一帯と、仁川府に編入されなかった従来の仁川郡の地域の全部、そして江華郡の一部地域が統合され、富平の富と仁川の川を取って富川郡が新設された。当時の富川郡の行政区域は坡州面 をはじめとする15面148里であった。

3.1運動と桂陽

1919年3月1日に発生した3.1万歳運動は瞬く間に全国的に拡散したが、仁川地域で最大のデモが行なわれたのが桂陽であった。3月13日以降、蘇来面や桂陽面の住民数百名が蘇来山に火をつけ万歳を叫び、邑内でも数百名が集まりデモを行った。

1919年当時、桂陽面には数十世帯の天道教信者が居住していた。彼らは天道教主である孫秉熙からの感化を受けており、孫秉熙一行と連携して3.1独立万歳運動決起の準備を進めている事実が住民らから伝わり始めたのは3月中旬ごろからであった。彼らの活動地域は富内(富平)、桂陽、西串や金浦地区などであった。彼らは万歳運動の以前から計画を立て、唐傘連判状の作成や地区ごとの配布、太極旗やプラカードの製作などを細かく計画し、万歳運動を黄魚場の市場が立つ3月24日とし、時間は市場の終わる2時頃として、住民が市場へ出かけるよう装って集まることができるようにした。代表者らは桂陽面事務所を訪問し、面長と面書記が万歳運動に同調するよう依頼した。しかし、面長らは公務員であるため、協助はするが行動は起こさず、黙認する程度とすることで両者は合意した。

3月24日午後2時頃、数百名の民衆が太極旗を手に、「大韓独立万歳」と記した大きな旗を掲げた先導者である沈爀誠の掛け声に合わせて大韓独立万歳を連呼した。絶叫するかのような民衆は、街頭デモに突入し、この街頭デモは相当時間続いたが、その最中に先導者の沈爀誠は管轄警察である富内駐在所(桂山洞)に逮捕された。警察に逮捕された沈爀誠を奪還すべく民衆は様々な努力を行ったが、デモの群衆と警察が衝突し、この際に負傷者が生じただけでなく、警察側に切られて命を落とした青年もあった。この万歳運動に関して警察に検挙、収監された者は30名に達した。このことからも、市場の日の万歳運動の規模がいかほどであったかを窺い知ることができ、これこそが仁川地域最大規模のデモであった。

現代

政府樹立と桂陽

日本の敗戦により、韓半島は治安の空白状態に陥った。富平も同様の状態で、この空白状態を埋めるべく、8月16日、富平では学生治安隊と一般治安隊、そして蔡秉徳治安隊が組織され、治安隊は富平公会堂(旧・富平区庁2階)に事務室を置いた。学生治安隊(中学生と専門学校生により構成)は直ちに富平警察署と各派出所に配置され任務についた。学生治安隊は1945年9月8日に米軍が駐屯し、軍政が実施されるまで任務を遂行し、この期間中の富平では窃盗や強盗、火災などの事件、事故は発生しなかった。これは、学生の力というよりも、全面的に住民が協力したためであり、文化民族の証であった。米軍は38度線以南に進駐し、ソ連軍は38度線以北に進駐してそれぞれが軍政を実施していたが、38度線は誰が、どんな目的で確定したものであるかは誰も分からなかった。これは、将来的に究明しなければならない課題でもある。1945年9月7日に上陸、進駐した米軍により軍政が実施され、駐韓米軍司令官ホッジ中将は9月11日、軍政長官にアーノルドを任命し、仁川の軍政官にスティルメンを任命した。また、仁川市長には任鴻宰、富平地区長に金碩基、西串地区長に金元容が任命された。

10月16日、仁川の町会長連合会議(現在の洞長連合会議)にて任鴻宰が市長に選出された。1945年11月 1日には富平・南洞・西串・文鶴出張所をそれぞれ支庁に改称し、1946年1月1日には町を洞に変更した。同年6月25日午前4時に南侵を開始した北朝鮮の共産軍は6月28日にソウルを占領し、7月3日に仁川を占領した後も南下を続け、ついに洛東江に至った。北朝鮮軍の占領を受け、避難が叶わなかった人々は虐待を受けるなどし、一部は共産軍に協力する者もあった。国連の安全保障理事会の決議により、国連軍が韓国戦争に参戦することとなり、国連軍が韓国戦に参戦したことで戦況は韓国側に有利に展開した。9月15日には有名なマッカーサー将軍による仁川上陸作戦の成功があり、国連軍はその勢いのまま9月17日には金浦飛行場を奪還し、28日には首都ソウルを取り戻した。

仁川と富平は韓国側に戻ったものの、南下していた軍と警察が復帰し、治安や行政業務を遂行することが可能となるまで暫定的に業務を遂行すべく富平公会堂(旧・富平区庁2階)に志ある人々が集まった。当時の会合の雰囲気は非常に興奮したようでもあり、冷たく沈んだようでもあり、緊張状態でもあったという。ここで治安隊長に李載濬(前・デリム産業会長)、行政責任者に尹柱煥を選出し、各洞の治安責任と行政を担う者についての選出も行った。

区制の実施

1950年代中盤に入ると社会は安定し、人口も急増した。1956年11月23日付けの仁川市条例第144号で「仁川市出張所設置条例」を改正し、内務部の承認を受けて1957年1月1日に施行された。これに伴い、従来の富平・西串・南洞・文鶴・朱安の5つの出張所に中部、南部、東部、北部の4つの出張所が追加されて9つの出張所が設置されることとなり、仁川市規則第53号により出張所の職制を制定し、地方参事や地方主事を所長や副所長に任命することとなった。

仁川市は人口の増加や市機構の拡大、市議会の構成、市区域の拡張、都市計画などの発展的変化を重ね、1967年に市の行政機構の拡大、改編のため区制を実施するに至った。即ち、1967年3月30日の法律第1919号により「仁川市区制」実施に関する法律が公布され、1968年1月1日より施行された。これに伴い、仁川市のすべての出張所は廃止され、中区、南区、東区、北区の4区が設置された。しかし、1967年12月29日の仁川市規則第24号により「旧 出張所職制」を制定、公布し、南区と北区にそれぞれ1つずつの旧 出張所を設置することとなり、これが南区の南洞出張所と北区の西串出張所である。富平地域には北区が設置され、かつての富内面と西串面の地域で法定洞が29洞、行政洞が19洞で面積は81.61㎢、区設置時点の人口は20,475人であった。また、区制実施と同時に十井洞が北区に編入された。

1914年4月1日、独立した行政単位としての富平郡は解体され、かつての仁川府臼邑面、西面、南村面、鳥洞面、新峴面、田反面、黄等川面、永宗面、龍遊面、徳積面、多所面など12面のうち仁川府に属さない地域と、江華郡のうち信島、矢島、茅島、長峰島と南陽郡大阜面、霊興面、富平郡を統合して、富平郡の富と仁川の川の字をとって富川郡が新設された。1936年9月26日の府令第93号による「府・郡の名称、位置、管轄区域の改定」を公布し、同年10月1日に実施されたところによると、富川郡文鶴面の鶴翼里、玉蓮里、官校里の一部と承基里の一部、多朱面の桃花里、龍井里、士忠里、長意里、間石里の一部が仁川府に編入された。これにより第一次仁川府域が確定した。

1940年4月1日、府令第40号及び京畿道令第5号により、当時富川郡の管轄区域であったかつての富平郡富內、西串地域が文鶴、南洞地域とともに仁川府に編入された。これにより、第二次仁川府域が確定した。富平が仁川府に編入されたことで、独立した行政単位としての姿は失われ、仁川の一部地域に属する契機となった。

1968年1月1日に施行された「仁川市区設置に関する法律」により、かつての富平地域の一部ではあるが、独立した行政単位として「北区」との名称が登場した。すなわち、富內面地域と西串面地域が北区となったのである。1973年7月1日の法律第2597号により、素砂邑が発展的に富川市と改称され、桂陽面と吾丁面は金浦郡に編入されたが、1975年10月1日の大統領令第781号により、金浦郡吾丁面は富川市に編入された。

1989年1月1日の法律第401号により金浦郡桂陽面が仁川市に編入され、北区に属することとなった。これにより、富平郡の富内面は一部が富平区として独立し、富内面の一部と桂陽面が統合されて桂陽区となり、西串面が金浦郡の黔丹面と統合されて西区となり、素砂と吾丁が統合されて富川市を構成することとなった。すなわち、かつての富平郡は現在の仁川広域市桂陽区、富平区、西区と富川市に分割されたこととなる。これらのかつての富平府(郡)の区域が、単一の行政単位としてその名称が存続することが期待される。

仁川直轄市

植民地支配からの解放前の仁川の人口は20万人に満たなかった。1960年代に入り、ついに仁川の人口が50万人を上回るようになると、1968年に区制が実施されることとなった。1968年12月21日には韓国の交通発達史に新たなページを開くこととなった京仁高速道路が開通した。また、経済成長の速度は驚くべきもので、輸出も好調であった。国民の生活は向上し、仁川の人口は日々増加傾向にあり、1968年には人口50万人、1980年には100万人を突破した。1981年4月13日の法律第3424号により仁川市は大邱市とともに直轄市に昇格し、1981年7月1日に施行された。

仁川直轄市の行政機構は大幅に改編された。1981年7月1日の仁川直轄市規則第734号並びに仁川直轄市担当官及び室課職制第735号により改編された仁川直轄市の行政機構は3室7局1本部5担当官33課98係となった。その後、何回かの改編作業を経て、1982年2月24日の仁川直轄市規則第826号により改正された仁川直轄市職制によって、本庁は2室8局1本部4担当官34課98係で構成され、区出張所は4区2出張所に31課107係79洞を置き、21の事務所には2課37係が置かれることとなった。

直轄市に昇格した仁川は、京畿道の管轄から外れ、京畿道の監督によらず、直接政府の直轄下に置かれることとなった。仁川直轄市では行政の二元化から生じる不便が軽減され、行政の迅速化と独自の都市開発を推進することが出来ることとなった。こうして、都市発展は加速、活性化することとなり、独自の税収と予算編成、執行が可能となり、年間200億ウォンの歳入増加につながって、都市開発が更に促進されることとなった。仁川の直轄市昇格に伴い、仁川直轄市教育委員会が設置された。教育委員会には教育監を置き、学務局と管理局の下に初等教育課、中等教育課、実業教育課、社会教育課、管理課、施設課、財務課、庶務課、企画監査課を設置し、仁川直轄市内の公・私立初等・中等・高等学校の業務にあたることとなった。

仁川の人口は増加を続け、1988年1月1日には大統領令第12367号により、北区の西串出張所と南区の南洞出張所が廃止されるとともに、北区から西区が分離され、南区から南洞区が分離された。西区の管轄区域は白石、始川、黔岩、景西、連喜、公村、深谷、佳亭、新峴、石南、元倉、佳佐洞などである。